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サンタの部屋

 

サンタチャペルの週報に記されております、「サンタの部屋」(坪井永人牧師筆)を毎週掲載いたします。

2022年9月18日号より

永遠を創る力、「頌栄・賛美」…マタイ6:13…

主の祈りの最後に、〔 〕に入った言葉が書いてある。古ラテン語の聖書には無い部分である。代々の教会がこれを聖書の中に入れている。・・・主に尋(た)ずねてみよう。
 出所は、ダビデの祈り(歴代29:11)にあると言われているが、私は出所は聖霊様だと思う。「主の祈り」が祈りの手本であるなら、不完全な
人間の祈りの最後にすべてを整える慣用語として頌栄を用いることは適切なことであろう。しかし、主の祈りが人間の創造の完成の言葉であるなら、この頌栄は通常の祈りを締めくくる習慣的言葉以上の意味を持っているのではないだろうか。
 イエスがベツレヘムの馬屋に生まれた時、闇の中にある天空は天使の歌声に満ちたと書かれている。更に遡(さかのぼ)れば、創造の大地、天空はどうであったろうか。主ご自身が創り上げる日毎に、「よくできた!」「よくできた!」と叫ばれ、六日目の完成時には、「本当に良く出来た!」と祝福を宣言されている。創造の業への祝福は主ご自身から出ているのだ。
 2000年前、イエスがガリラヤを歩まれた時、創造は頂点を迎えた。人はついに完全なものとなり、神の栄光は天地に満ちた。万物は主の栄光に満たされ、天地は賛美に満ちざることがあり得ただろうか。頌栄は人のみの賛美ではない。万有が虚無からの回復の道を示され、全被造物が神の栄光に満たされ賛美したのだ。
 主の祈りは、祈りの手本ではない。天地の創造の言葉である。祈るもの自身が創られ、祈るもの自身が栄光となり、祈るもの自身が神への賛美となるのだ。主の祈りを聞いた代々の教会が、それを唱え、それを伝える時、栄光賛美、天地に満ちざるをえなかった。聖書はその声を記したのだ。


  「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」マタイ6:13

2022年9月11日号より

永遠を創る力、「悪からの救い」…マタイ6:13… 85

主の祈りの最後が「悪からの救い」であることは興味深い。主の祈りは、神が人に求める完全な創造の宣言であるから、その最終の言葉は「人の創造の目的」ということになる。
「試みに会わせないで、悪から救われる」ことこそ、神による人を創造し完成する目的なのだ。
 公生涯の始めに荒野の試みに会われた時、イエスは生ける神の言葉によって、サタンを退けられた。試みとは「神から離す」のことである。しかし、ヨルダン河でイエスに下ってきた聖霊は、イエスと共にいて神の言葉としてあふれ出て、神から離す力を打ち砕いた。それはまるで暗闇の中でおびえる子供の耳に「大丈夫よ」ささやいた母親の言葉が、まだ弱い子供の恐れを取り除き、やがて成人した時に、理不尽な悪に打ち勝ち、愛する者を守り、善を創造する力となって、その人の一生を支える力とさえなるように、神の国を来たらせるイエスを支える力となったのだ。
 神がなされた人間の創造の最後の業が、人間が自由意思を持って神の子として成長して行くことを支え、勇気を与える愛の創造の言葉なのだ。イエスは十字架の後、閉じこもっていた弟子達に現れ、「平安あれ」と言われた。その平安に支えられて、弟子達は迫害の中でさえも、地の果てにまで福音を伝えた。
 人の創造の完成の時が来た。神の国は近づいた。

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」 マタイ6:13

 「私たちを試みに会わせないで、」と言うのは、「私たちを十字架の救いによって、聖霊様と共に生きるものとして、」という意味。 「悪からお救いください。」とは、「神から離れてしまうという恐れから救ってください。」という意味なのだ。
 まるで、あのベツレヘムの夜のように、歴史の天空は賛美に満ちようとしていた。

 

 

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